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​無結う民<mu yuu tami>

 人知ならざるものの力なんて、ない。知覚できるものだけが〝存在〟だ。
 ならばこれは、この光景は、一体何なのだろう。
 眼前で燃え上がる視界。体感で三秒前まで、自分の世界だった四畳半。
「だから言ったじゃないですか」
 確かに、言われた。とはいえ、こんなことが。こんなことが許されてなるものか。 
 これだけは離してなるものか。
 リョウタロは胸元のフィルムカメラを、ひしと抱きしめた。

    8

 昔から、嘘が好きだった。
 人が思わず笑顔になってしまうような、嘘。
 それ故に、ホコリと塵が無限に降り積もった物理資料の隙間に首を突っ込んで、旧式の入力端末を弾く羽目になっているのだけど、それでも。
「〝某市地下ビルで生後十日の女の子発見〟っと 」
 今週更新予定の記事を打ち込みつつ、リョウタロは目尻を細めた。
 ××元年以降、政府発表での出生率はゼロパーセント。つまり、この記事は純度百パーセントの嘘だ。
 嘘を嘘として楽しめる人間に向けた、楽しい楽しい嘘の集合体。
 それがリョウタロの運営するニュースサイト『ミリョウノハコ』なのだ。
 すでに掲載されている記事も、白のパンダが見つかっただの、人気ドラマが出演者の暴動で打ち切りだの。少し考えれば、誰にでも嘘と理解できるような代物ばかりだ。しかしながら、こういった馬鹿馬鹿しい嘘を好む人間もそれなりにいるらしい。新しい記事を投稿すれば、即座に数十万程度のアクセスが通知される。
「小さいけれど、楽しい我が家ってね 」
 世界のどこかに存在しているであろう読者たちとの、最期の晩餐の構図が浮かぶ。もはや骨董品に近い液晶画面から発せられる青白い光に照らされつつ、教祖様役のしたり顔。誰に見せるでもない一人舞台だ。ひとしきり満喫すると、リョウタロはのっそりと伸び上がった。すると、あらゆる関節が今こそ砕け散らんとばかりの破砕音を発する。画面の前で背中を丸め続けていたせいだろう。この部屋唯一の窓にかかったブラインドカーテンから漏れる光は、夜明けを告げ終えて久しい。リョウタロの視線が外れたのを探知したらしく、入力端末は極自然な動作でスリープに入った。真っ暗になった液晶画面に映る茫洋とした顔は、昔々のフレスコ画に描かれた予言者とは似ても似つかない。どちらかというとトカゲや蛇の類いに近いようで、リョウタロは思わず舌を出した。ふと鼻孔をくすぐるスパイシーな香りに、よだれが滴りそうになる。そういえば、昨晩記事の打ち込みを始めてからこれまで何も口にしていない。
 聖人でも爬虫類でも、腹が減っては何とやらだ。

 

  7

 空腹をもよおしてリビングルームに降りてきたリョウタロを出迎えたのは、義兄のシグマだった。
「あ、リョウくん。起こしちゃった? 」
 振り向くだけで花が舞うとは、何事だ。
 そんな馬鹿馬鹿しい空想と現実を、リョウタロの腹がうなり声を上げて引き結ぶ。
「ありゃ、はらぺこさんだね 」
 目を見開くと幼さを帯びる顔は、天使に近い。
 美しさと性別の曖昧さ。両方の意味で、だ。
 シグマがいるだけで、四人がけの食卓テーブルとくたびれたソファ、旧式テレビジョンが配置されただけの凡庸なリビングルームが高名な宗教画のようになる。
 婚姻制度の不毛さを理由に三十年以上鉄の無婚主義を掲げてきた姉が、突然連れてきた婿殿。
 それが、シグマだった。
 リョウタロは産まれてから今まで、姉一人弟一人で暮らしてきた。この世に二人を産み落としたはずの両親はリョウタロが産まれてすぐに家を出て、一度も帰ってきていない。リョウタロの身体年齢が十八歳に至った際にちょっとした機会があったので両親の行方について調べたところ、すでにそれぞれ別の家庭を持っていることも判明した。おそらく、今後も帰ってはこないだろう。その事実は、姉にとっては相当の衝撃だったらしい。このリビングルームで、リョウタロが両親についての調査結果を披露したところ、聞き終わるや否やワッと声を上げて外へと走り出てしまったほどだ。突然の奇行に、リョウタロはただただ肩を強張らせて立ち尽くした。何しろ、姉がそこまで取り乱したのは初めてだったのだ。小一時間ほどして、家の周辺をひとしきり駆け回ったらしい姉が真っ赤な顔をしてこのリビングルームに戻ってきたのを見て取り、リョウタロはようやく床にへたり込んだ。
 そこで気づいてしまった。
 記憶にない両親の不在など、一向にかまわない。
 が、姉の不在には耐えられない、と。
 急に弱々しくなったリョウタロをかき抱き、姉は涙混じりに言葉を絞り出した。
「ずっと二人だったんだもの、これからも二人でいいじゃない」
 リョウタロも心底同意の意味をこめて、姉のか細い肩に額を擦りつけた。
 そんな劇的な出来事を乗り越えた姉弟の間に、降ってわいた他人がシグマだ。
 最初こそ、いきなりの同居はリョウタロにとって受け入れがたくはあった。二人でいい、と言った姉から裏切られた苦さで、家の中の空気がまずくてしかたなかった。それでも未だに同居を続けている理由の一つは、シグマの存在が家族と言うより美術品に近いからだろう。
「リョウくん? 」
 どこか夢見心地に視線を漂わせるリョウタロをいぶかしげに見つつ首をかしげる仕草は、同じ成人済みの男性のはずなのにどこか美少女じみている。身長過剰を抑制する薬剤〝エスター〟の投与を怠ったせいで妙に背丈だけ伸びてしまったリョウタロと自然に目を合わせて話しているのだから、シグマもそこまで小柄というほどでもないはずだ。ただ、頭や肩、手足の華奢さが相まって、両の手で握りこんでしまえば簡単に崩せそうな印象を与えてくる。美少女である。
「リョウくん、大丈夫? 」
「駄目です。もう三日も何も食べてません 」
 それは大変、とアイランド式のキッチンの奥に入っていくシグマの後ろ姿は紛れもなく成人男性のもので、ありがちなウルフカットも、黒のハイネックセーターも、細身のデニムパンツも、飾り気のないシンプルなエプロンも、パーツごとで見れば媚びた要素は一切見られない。 それでも美しいのだから、それは本人の資質なのだろう。貴重な人物である。姉が婿として保護したくなるのも当然だ。だからこれは、三人で暮らしているのではない。二人の生活に、美術品が加わっただけなのだ。
 内心で言い訳のマシンガンを炸裂させるリョウタロに、無生物であるべき美形は無邪気だ。
「三日も食べてない人に、カレーってしんどい? 」
「いえ、三日は冗談です 」
「でも食べてたの、レーションでしょ 」
 腹だけがグウの音で応える。
「あんな穴蔵みたいなとこで、縮こまって、冷たいものばっかりじゃ身体壊しちゃうよ 」
「れ、レーションは院も総研も認めた栄養食品で・・・ 」
「僕は認めてない 」
 カジュアルに権力を否定するのも、今までその美形で何もかもが許されてきたからだろうか。きっとそうに違いない。
「いいから、お義兄さんのカレーを食べなさい 」
 だから、こんな家族のような振る舞いが許されるのだ。しかたないのだ。
 リョウタロは自らを納得させ、シグマが差し出した皿を受け取った。ぽくぽくと平和な湯気を立てる白米に、カレーのソースが艶めいている。たまらず食器棚からスプーンを引っ張りだし、立ったまま一口頬張る。先ほど自室まで侵入してきたスパイシーな香りが喉から鼻に抜け、あまりの心地よさにもう一口。我慢できず、大きくもう一口。さらに一口。空っぽになった皿を受け取り目を輝かせたシグマは、瞬時に白米とカレーを盛り直す。
「おかわりはあるから、座って食べなよ? 」
 胸が締めつけられる笑顔と腹を満たす食事を揃えて出されるとは、もはや抗えるはずもなく。
 結局、リョウタロは大盛りカレーライスをうめうめと三杯も平らげるはめとなった。
「うええ苦しい」
 今は膨らんだ胃袋を抱えて、ソファでくたびれている。
「いやしく食べるからだよ 」
 意地悪なセリフも、シグマに見下ろされながらだとご褒美だ。
「リョウくんはさ、食べるわりに痩せてるよね 」
「無駄にタッパあるんで 」
「やっぱりレーションじゃ栄養足りてないんだよ 」
 シグマの言いたいことはわかっている。
「もっと一緒に食事をしたらいいんじゃないかなって、僕は思うんだけどな 」
「すいません、熱中しちゃうと降りてこれなくて 」
 常人であれば、死に水でさえご一緒したいと願うに違いない提案をあっさり蹴るリョウタロに迷いはない。熱中する対象は、もちろん自身の運営するニュースサイトだ。
 リビングルームに沈殿する気まずい空気を破ったのは、小鳥の鳴き声に似た水音であった。
 ソファの影から見やると、食卓テーブルの一かけでシグマが何やらすすっている。
「うどんですか 」
「ん、カレーうどん。代用小麦だけどね 」
 両手に納まる程度のお椀から麺を箸ですくい上げ、口に運び、すすり上げる。それだけの動作なのに、口のとがらせ方から箸先の揺らめき方まで優美なことこの上ない。何故か、平凡なカレーうどんが神秘を帯びている。
「お鍋にある分で足りる? 」
 うんうんとうなずき、リョウタロは電子コンロに置かれた鍋から軽く一杯カレーうどんをよそい、シグマと向かい合わせの椅子に腰掛けた。リビングルームの食卓テーブルで向かい合ってうどんをすする光景は家族のようではあるが、やはりどこかぎこちない。
「足りなかったら、茹でるから言ってね 」
「うどんくらい、自分でできます 」
 伸びた語尾に被せてリョウタロが宣言すると、シグマは泣きそうに頬を強張らせた。
 ぴょん、と脳裏にイメージが跳ねる。
 ウサギ。ウサギだ。ガラス細工のウサギ。
「さみしいと死んじゃうタイプですか 」
 言葉の意図を読み切れずに首をかしげるシグマを横目に、リョウタロは空になった器を流しに下げ、凹式の食器洗浄機に突っ込む。
「リョウくん、そういえばなんか届いてたよ 」
「通販ですか 」
「ううん、これってユービンハガキってやつじゃない? 」
 シグマは、指先に挟んだ紙片をリョウタロの眼前に踊らせた。この凡然としたリビングルームには存在し得ない原色のレインボーラメを惜しげもなく使った紙片。正直、趣味が悪い。確かにリョウタロの名前と住所は書かれており、切手と呼ばれる郵便証紙も貼ってある。歴史資料ライブラリで見かけた、古式ゆかしき郵便ハガキのようだ。
「こんなの、まだあるんですね 」
 無関心を装って摘まみ上げると、リョウタロはまだ何か言いたげに震えるまつげの束をすり抜け、リビングルームを脱出した。あまり長く話していると、家族が二人から三人になってしまいそうだ。すでに身体年齢が二十七歳に達する男性が無生物を家族として迎えるのを想像して、リョウタロは眉をひそめた。そういうことをしていいのは、せいぜい十代女性の姿形をした者までだ。
 早足で自室のドアを開けると、その振動で積んであった物理資料の塔群がぐらりと揺れた。あわや大惨事か、とリョウタロが手を差し伸べるも、積まれたものたちはお互いに押し合いへし合い、驚きのバランスで形を保つ。どこにそんな能力があるのか、と奇跡の塔たちを見やるリョウタロの目は冷ややかだ。普段、この四畳半には今は読まないが捨てるには惜しいだけの物理資料と博物館にあってもおかしくない旧式の入力端末と、骨ばかり目立つリョウタロの身体がみちみちとパズルのように組み合わさっている。リョウタロの不在時に何かが崩れたとして、失われるのは一人分の空間だけだ。
 いっそのこと一押しで崩してやろうか。
 危うい衝動に負けることなく、リョウタロはぬるりと本と端末の隙間に自らを滑り込ませた。さながら巣穴に潜り込む蛇だ。薄暗く適度に湿気を帯びたほこりっぽい空気を肺いっぱいに吸い込むと、シグマによって乱された平穏が凪いでいく。薄汚れた酸素が肺から脳に巡り、こぞって煙草を呑みたがった数世紀前の報道陣たちと心が通じ合わせてくれる。
 国司院という組織が絶対的な権力を持ち、このN本国での報道正常化が達成されたのはいつのことだったか。学習適正年齢の時に脳内に埋め込んだマイクロチップで情報検索すれば簡単に出てくるだろうが、リョウタロにとって正確な年号は意味を持たない。ただ、報道正常化以前はリョウタロが書く程度の嘘でさえ職業として成立していた、という事実は、過去への甘い羨望をくすぐって離さない。
 生活に不自由はなかった。国司院からは、仕事をせずとも食べて寝るだけなら十分な額のベーシックインカムが支給されている。ましてや、リョウタロには家がある。同年代にはもっと狭い公共住宅に収納されたり、何の因果か高級集合住宅を好んで選び生涯ローンで自転車操業を強いられたりしている者もいるのだから、そこから見れば恵まれた状況ではあるのだろう。
 それでも、リョウタロは考えてしまうのだ。
 この、報道という趣味が、公に職業として認められていれば。
 そういった時代に生まれてさえいれば、と。
 旧式の入力端末を使い続けるのも、そんな幻影を手放せないからだ。メイン目的の入力機能でさえ実態のある指でプッシュ動作をしなくてはならず、送信できるのは二バイト言語での文字情報のみだ。加えて、リョウタロが生まれるはるか以前に廃止されたGシリーズの電波でなければ送受信もできないため、偶然にも野良電波に恵まれたこの四畳半以外では玩具にすらならないだろう。しかしながら、リョウタロはこれを好んで使っている。
 この入力端末は、報道正常化以前の代物だからだ。
 これを使ってさえいれば、少しだけ近づけるような気がした。リョウタロが更新している嘘と似たような内容に、趣味以上の社会的意味づけを見いだされ報酬が支払われた時代に。そうして、食べて寝る以上の報酬を得ていた昔の人々に。だからこの入力端末は、道具である以前にある種のお守りなのだ。
 突如、何かがギラリときらめく。
 刃物を思い起こさせるような輝きに、身体の方が先に危機を察知したのだろう。意図せず片手の平で顔面をガードすると、容易に弾かれた光は穴の空いた風船のように情けない音を立てて物理資料の隙間に突き刺さる。
 恐る恐る寄って見ると、それは先ほどリビングルームで受け取った郵便ハガキだった。やたら薄く、趣味の悪いラメで覆われているおかげで端末起動時の光を反射したのだろう。
 なんと人騒がせな。
 リョウタロが乱暴に郵便ハガキを抜き取ると、物理資料の塔がざわざわと揺らめいた。ドアを開けたときよりもブレ幅が大きいので、今度こそ倒れるかもしれない。
 しかし、リョウタロが先ほどのように手を差し伸べることはなかった。
 郵便ハガキの裏面に浮かび上がった文面が、それを許さなかった。

 最初の一行に『国司院 正式依頼』
 次の一行に『ミリョウノハコ管理人 殿』
 その次の一行に『国策記事の作成、依頼いたす』
 最後に『給金確約、お近くの国司院事務所までごーごー』

 塔は崩れ、ぽかんとしたままのリョウタロに降り注ぐ。
 一つが崩れれば、他も続く。
 まるで雪崩だ。物理資料のバベルの塔、倒壊の瞬間。
 秩序を失った物理資料たちはうねりとなり、リョウタロを椅子ごと廊下へと押し出した。殴りつけられたような勢いで横倒しになるも、リョウタロの手は虹色のハガキを握って離さない。何かの間違いではないかと読み直した。国司院、正式依頼。何かのイタズラではないかともう一度。国司院、正式依頼、国策記事。さらに噛みしめるようにもう一度。国司院、正式依頼、国策記事、お近くの国司院事務所まで。
 考えるまでもなく、ごーごーだ。
 虫けらのように這いつくばって、階段を転がり落ち、リビングルームの扉を通り過ぎて、玄関口の靴箱から自分の靴を引っ張り出して。力任せに靴につま先を突っ込み、一歩踏み出すも、すべって転んで顔面を殴打。
 何かと思えば、靴が。
 靴が、砕けていた。
「リョウくん、大丈夫? 」
 リビングルームからこちらをうかがっていたシグマがぴょこぴょこと廊下に出てきて、リョウタロの足下を覗き込む。
「合皮だから、経年劣化かな 」
 リョウタロは頭を抱えた。思えば、ここ五年ほど外に出ていなかった。合皮でできた安物の靴など、そんなに保つはずがない。
「ねえ、悪いとこ打った? 大丈夫? 」
 いきなり丸くなった背中をさするシグマの羽毛のような手のひらが、これほど心強く響いたのはこれが最初で最後だろう。
 リョウタロはその手にひしとすがりつき、言葉を絞り出した。
「あの、すみません。靴、貸してください 」

 

 

 
  6

 あっと言う間の〝あ〟の字は、唖然の、あ。
 ありえない、と切り捨てていた夢が、たった数時間でこんこんぽんと叶っていくので、リョウタロはあっけに取られていた。
 夕日差し込む国司院事務所併設のオープンカフェ。楕円をくしゃっと潰したような小洒落たテーブルを挟んだ向かいには、二人の美少女。いや、××元年以降、政府発表での出生率はゼロパーセントなので、若くとも二十歳は超えているであろう、愛らしい少女の姿をした女性が二人、腰を下ろしていた。先ほど受け取った名刺によれば、若く見積もって十八歳前後、黒髪ショートカットでぴったりとしたパンツスーツ姿の方がミユミ。どう見ても十歳以下、ピンク髪ツインテールでフランス人形を安っぽくしたような服装の方がニュニュ。リョウタロは人に渡す名刺など存在すら忘れていたので、出会い頭から大汗をかく事態に陥ったが、二人とも特に気にはしなかった。それどころか、こちらが仕事を依頼した側なのだから名刺などなくて正解、と好意的に受け入れてくれた。
「追加で何か頼みます? 」
 リョウタロのアイスコーヒーが早々に空になったのに気づいたミユミが、短く切りそろえた髪を揺らすことなく慣れた手つきで宙空のディスプレイを操作し、目の前に数多のメニューを提示してくる。
「ここはワタシら持ちなので、好きなもの頼んでください 」
「じゃああたし、ナポリタンとクリームあんみつソーダ 」
 ミユミの事務的な親切を聞くや否や、ニュニュがツインテールを左右に踊らせて宣言する。もうすでにいちごミルクセーキとハンバーグパンケーキセットを平らげているはずなのだが、幼く小さな身体のいったいどこに入るのか。もしや、その膨らんだスカートの中に胃袋が四つあるのか。
「あたし、肉体労働者だから。食べても食べても足らないの 」
 背中の褐色細胞が活発すぎるからとでも言いたげに、ニュニュは運ばれてきたクリームあんみつソーダのアイスクリームを頬張った。
「ニュニュは殺人鬼、失礼、実行係だから、三欲が強いんです」
「三欲、すか。食欲と睡眠欲と排泄欲 」
「正解。さすが、博識ですね 」
 ミユミの口から発される賞賛は、リョウタロの胸の上のあたりをを甘やかにくすぐって離さない。脳内のマイクロチップで情報検索しました、とは口が裂けても言うまい。
「そこで、その頭脳でワタシたちを助けていただきたいってお話なんですけど 」
 そう。そういうお話なのだ。
 シグマから借りたつっかけと部屋着のまま地区内の国司院事務所に向かい、業務に必要な生体認証とハガキの無生体認証を済ませ、寄せ木細工状の扉をいくつも開いた先にあったもの。
 それがこの二人。
 ミユミとニュニュの二人だけで構成される〝人口調整課〟だった。二人並んだ印象は、モノクロの棒付きキャンディとイラストにありがちなキャンディ包み。正反対なのに不思議な調和が発生しているのは、二人のまとう雰囲気がどこか似ているからだろうか。やはり国司院で雇用される人間となると、優秀すぎて似てきてしまうのだろうか。
 ××元年以降、全人類が生殖能力を失ったおかげで、リョウタロたちの世代から発展途上国における人口爆発での資源枯渇という懸念が払拭された。しかしながら、le tolk総研が開発した薬剤によって不老不死をほぼ実現したとはいえ、人類が日々刻々と地球資源を食い潰し続けていることに変わりはない。このままでは近い将来、人口が増えずともこの地球の資源は枯れ果て、人々は死と老いを克服したというのに、さらなる貧困と飢えに苦しむようになるだろう。それは、このままでは確定された未来だ。
 ならば、余剰人員の数を減らそう、というコンセプトで国司院によって組織されたのが人口調整課なのだ。
 しかし、新参者に世間の風当たりが厳しいのは世の常だ。特に人口調整課に対してはそれが激しく、匿名の投書に始まり細々とした嫌がらせの嵐。最近ではどこかで抵抗勢力が組織されたという噂まである。
 そんな世の中の流れを変えるため、ミユミとニュニュが案じた一計が、リョウタロの元に届いたギラギラハガキだった。
「もう、ワタシたちではどうにもならなくて 」
「キジも鳴かねば打たれまい作戦なの 」
 均整の取れた小作りな頭を惜しげも無く下げるミユミと、無い胸をせいいっぱい反り返らせたニュニュ。
 対照的な二人ではあるが、言いたいことは同じであった。
 要は、腕のよいライターに人口調整課のイメージアップを謀る国策記事を依頼したい、と。
 藪から棒に飛んできた白羽の矢に目を白黒させつつも、リョウタロは内側から溢れてきた気概に押されて背筋を伸ばした。何かと思えば、長期的な国難に対処する機関を補助する業務だ。誰にでもできる糊口しのぎのアルバイトとは違う。リョウタロにしかできない仕事だ。しかも、目の前には可愛らしい異性が二人も、だ。これまでまともに目にした異性といえば姉くらいのものだったリョウタロにとっては、社会的な立ち位置の形成と異性間交流と、二重の意味でチャンスだ。これをものにせず、なんとしょう。頭の中で突撃のラッパが鳴り響いた。しかし、すぐに食いついては舐められかねない。いったん考えるふりをしつつ、咳払いを一回。
「それにしても、世のため人のための部署なのにひどいですね」
「ええ、ひどいんです 」
 ミユミのうるんだ視線に、思わず口元が緩む。
「人類のために割けるリソースは減ってきてるのに 」
「そうです。減ってきているんです 」 
「ミユミさんたちは、お仕事でやっているだけなのに 」
「そうです。誇りを持って仕事をしているだけなんです 」
 ミユミとリョウタロの会話の応酬にナポリタンをぬっぷりと飲み込んだニュニュが割り込む。
「世の中はひどくずだから、あたしらがいるのにさ 」
 ひどいよね、と、うなずきあうミユミとニュニュは、まるでじゃれる子猫だ。
「ま、任せてください! 」
 二人のことがたまらなく愛おしくなって、リョウタロは思わず立ち上がって宣言した。チャンスの女神には後ろ髪がないらしい。つかむなら今しかない。
「俺が、必ずやお二人の名誉を守って見せます! 」
 少女二人分の小さな拍手が、演説会場を取り囲む観衆の熱狂的な歓声に変わる。
「この制度を批判してる人間なんて、どうせろくでもないですよ。単なる負け組の弱者どもです。俺の記事の力で、改心させてみせます。必ず、必ず 」
 リョウタロが早口で大演説を終えると、ミユミがにっこりと微笑んだ。
「ありがとう、リョウタロさん 」。
 それは間違いなく、リョウタロが今まで出会った中で最高に輝かしい笑顔であった。

 

 

 
  5

 いい日だ。
 単なる趣味を、国認めてもらえた。
 女の子には褒められ、仕事ももらえた。
 薄暗かった世界に、誰かが光あれと囁いたかのようだ。
 帰り道。リョウタロは口笛を吹くふりをしながら、ステップを踏む真似に興じた。いくら息を吐いてもリョウタロの唇からは何かを冷ましているような呼吸音しか出てこないし、ダンス経験もないので酔っ払いの千鳥足の方がまだマシな足取りだ。
 それでもよかった。ただこんな日は、口笛を吹いて踊ってみたかった。
 夕は暮れて、とっぷりと夜だ。住宅街の小道に人気はなく、家々には明かりが灯っている。暗い場所から明るい場所はよく見えるが、明るい場所から暗い場所はよく見えないはずだ。観測者がいなければ、多少の奇行は許されるだろう。リョウタロは街灯オブジェに片手を巻き付けて両腕を思い切り伸ばし、遠心力の導きに合わせてくるくると回ってみた。この幸福を、最高の幸福を身体全体で振りまいてみたかった。
「びゃうっ 」
 そうそう、そんな妙ちきりんな声を上げてもいいかもしれない。
 明らかな違和感に、リョウタロは自ら一時停止ボタンを押した。
 今、指先が何かを弾いた、気がする。
 おそるおそる声の先に視線を投げる。何やら人間大のやけに黒い影がうずくまっている。明らかにあやしい。そして、何か、まずい事態が起ころうとしている。いや、もう起こってしまったのか。
「だ、ダイジョブデスカ 」
 たどたどしく寄って覗き込んでみると、影の黒さの理由が理解できた。シスター服だ。足首まで隠れる黒のタートルネックワンピースに、額から髪の先まで覆う黒の頭巾。おかげで顔の白さが強調されて、その鼻先だけが赤く腫れているのが痛々しい。ちょうどリョウタロの指先程度の範囲の腫れだ。
「あのう 」
 しゃがみ込み、頭巾頭を膝に抱き上げて軽く揺すぶると、黒ずくめのシスターはうめき声と共にカッと目が開き、叫んだ。
「だいじょぶなわけあるかボケちんが! 」
 乾坤一擲。いや、この場合は注意一瞬、事故一生か。
 やにわに起き上がったシスターの額が、リョウタロの顎に炸裂。
「ぴゅう 」
 パイン飴を吹いても、ここまで情けない音は鳴るまい。
 どうやら、今の一撃で完全に意識を失ったらしいシスターの頭を抱えて、リョウタロはやれやれとため息をついた。見知らぬ人間とはいえ、ここに置いていくわけにはいくまい。幸い、家までは歩いて五分もないだろう。脇の下あたりから手を入れて肩を担ぐと、何かがむにゅりと当たった。女性特有の柔肉だ。
 どうやらこのシスター、見た目よりも肉付きがいいらしい。
 思い浮かんだ服の下の肢体のイメージにほくほくしつつ、リョウタロは家路を急いだ。
 今日は本当にいい日だ。


  4

「それで、連れて帰ってきちゃったの? 」
 シグマはリョウタロとシスターの顔を試すがめつ見比べたのち、頭を抱えてウムムと唸った。リョウタロも唸りたいくらいだった。何せ、もうすでに三回も同じ説明をしているのだ。それだというのに、シグマは何やら納得しがたそうに頭を抱えている。
「あのですね、国司院の仕事を請け負ってですね 」
「うん 」
「職員の方々と分かれて帰り際にですね 」
「うんうん 」
「この人とぶつかって倒してしまったので持ち帰りました 」
「ううううん 」
 四回目も同じことだった。
「あのね、人って言うのは物じゃないからね 」
「じゃ、連れてきたって言い直せばいいですか 」
「うん、えっと、そういう問題じゃなくて、ねえ 」
 うんうんと唸りつつも、シグマは浸透性の鎮静剤入り細胞再生シート、〝ナイトオブザリビングデッド〟を救急箱から取り出し、くたびれたソファに寝かされたシスターの鼻先と額に貼り付ける。袋にはle tolks総研の公式認定マークがあったので、これで一安心だ。すでに死んでいたとしても生き返るだろう。
「あのね、リョウくん。公的救急医療の制度は知ってるよね 」
「知らないわけないじゃないですか 」
 何故か空気がぴりりと辛い。
「じゃあなんで連れてきたの 」
 シグマの艶やかな睫毛が、華奢で透けるような身体が、威圧を帯びる。
「動かしちゃいけない状態だったのかもしれないよ? 」
「そ、それはそうかもですけど 」
「なら、倒れて動けない人を見たら、まず救急だよ 」
「そうそう。常識的に考えてそっちが先でしょ 」
 二人の押し問答に、いつのまにかもう一つの声が加わっている。
「あれあれ、もしかして自分がぶん殴っちゃったから通報できなかったのかなあ? 」
 鼻にかかるような柔らかいクレームブリュレのような声質の割には、言っていることが憎たらしい。ふと見れば、先ほどまで気を失っていたはずのシスターが頭をさすりさすり、むっくりと上半身を起こしていた。黒の頭巾がするりと落ち、金糸のようなイエローブロンドがこぼれる。開いた瞳は愁いを帯びたグリーンティー。最近流行のカラー注入ではない、自然な緑褐色だ。
「あの、無理に起き上がらなくても 」
「いえいえお優しい方、私はもう大丈夫。あっでもお水を一杯」
 シグマが一人用にパッケージングされた常温水の蓋を開けて手渡すと、シスターは一瞬で吸いつく。
「ぷはあ 」
 豪快な飲みっぷりにリョウタロもシグマも目を見張った。中身を飲み干すまで一秒もかからなかった。どうやら相当喉が渇いていたらしい。
「ありがとうお優しい方。この恩は一生忘れません 」
「いえいえ 」
 もう一本いかがと促すシグマの手をやんわりと押さえ、シスターは寝乱れたワンピースを指先でちょいちょいと直して座り直した。正座だ。背筋もピッとしている。
「どうも、リョウタロさん。教会のアリューシャです 」
 なぜ名前を、と聞き返す間もなく、シスター、アリューシャはリョウタロの手を取って言い放った。
「教会は人口調整課から、貴方を全力でお守り申し上げます 」
「はあ、キョウカイ、オマモリ…… はあ? 」
 初めて聞く言葉の組み合わせに、リョウタロは目を剥いた。
「あの、教会ってあの教会ですよね 」
「ええ。聖コドモドモの教会です 」
 このアリューシャと名乗るシスター、頭を打っておかしくなったのだろうか。
「でも、あの、アリューシャさん 」
  リョウタロと同じ疑問を抱いたらしきシグマが、身振り手振りを交えて言い切った。
「リョウくん、こんなにおっきいよ 」
 そう、おっきいことが問題だ。
 リョウタロも、うんうんとうなずいた。
 聖コドモドモと言えば、子どもに値する、主に身体年齢十八歳以下の人間を信奉する最大民間宗教団体として知られている。そして教会と言えば、聖コドモドモの信徒たちが、身体的な特徴が子どもに値する人間たちを保護するための最大機関だ。
 対して、リョウタロの身体年齢はすでに二十七歳。身長だって百八十センチを優に超えているし、それなりに骨張った身体はどう見ても子どものものではない。
「大きさの問題ではないのです 」
 こほん、と咳払いを一つ。アリューシャはすくっと立ち上がって拳を握りしめた。
「教会は、国司院主導の人口調整に断固として反対です 」
「あの、それが俺と何の関係が 」
「だから、貴方に今回のお仕事をお断りいただきたいの 」
「はあ、何で? 」
「何でもよ。そもそも倫理的によくないと思わないの? 」
 人口調整課の善し悪しを問われても、リョウタロには何も言いようがなかった。そもそも考えて答えを出したとして、物を決める立場にはないのだ。考えること自体が不毛だろう。
「ああ、もう! 思考停止のボケナスめ! 」
 アユーシャは落とした頭巾を拾い上げ、床に叩きつけた。感情的な行動だ。やはり頭を打ってどうかしてしまったのかもしれない。
 重たく淀んだ空気を変えたのは、シグマだった。
「アリューシャさん、おうどん食べる? 代用小麦だけど 」
 いつのまにか、キッチンからは有機性の優しい香りがふんわりと漂っている。
「……カンサイ風でしょうか 」
「うん、いちおう昆布メインの合成出汁に塩化ナトリウム少々」
「わあい、いただきまあす 」
 先ほどの暴言など、どこ吹く風。アリューシャはちょこちょこと小走りに食卓テーブルについた。リョウタロも後を追う。
 食卓テーブルにはすでに二人分のうどんが用意されていた。琥珀を溶かしたような透き通った出汁に細めのうどんが泳ぎ、揚げたちくわがにゅっとはみ出ている。まだ汁気を帯びて間もないちくわをに歯を立てると、サクリと音がした。揚げたてではないが、温かい。
「こら、皆でいただきますしないとだめでしょ 」
 我先にと食べ始めたリョウタロを見とがめたアリューシャが、口をとがらせた。
「作った人に対するマナー違反です 」
「ああ、いいのいいの。気にしないで 」
 作った本人がいいというのだからいいじゃないか、と、箸を止めないリョウタロにアリューシャは眉をひそめる。
「まあ、ひどいボケ人間だこと 」
「いいんだってば。冷めないうちに食べてね 」
 シグマがちくわ揚げ入りうどんのドンブリを手に食卓テーブルについたのを見計らって、アリューシャは豊かな胸の前で手を合わせていただきますと唱えた。
「教会だと、みんなそうやって食べるのかな? 」
 めずらしげにたずねたシグマのほほ笑みに、ほほ笑み返すアリーシャ。
「ええ、皆、家族ですから。保護者も子どもも一緒に、こう 」
 再度手を合わせて見せると、箸先で一口大にちぎったちくわを口に含んで一言。
「おいひい! 」
 口に物が入ったまま喋るのはマナー違反じゃないのだろうか。
「ふふ、ありがとう。いっぱい食べてね 」
「ふぁーい! 」
 アリューシャは食べる音がすべてオイシイと聞こえるほどの勢いでうどんのかけらから汁の一滴まで飲み干すと、再度手を合わせた。
「ごちそうさまでした! 」
「それも教会式のマナーかな? 」
「ええ、どちらかというと家族のマナーですかねえ? 」
 少し首をかしげて、アリューシャは空になったリョウタロの器に虚ろな視線を投げかける。その視線から逃れるように器を腕で隠すも、もう遅い。アリューシャのぷるんとした桜色の唇が食後の挨拶を促してくる。ごちそうさまと言え、と圧をかけてくる。
「えっと、家族じゃないんで 」
「はっ、では、ただならぬ仲! 」
「そういうんでもないんで! 」
「たたた爛れた関係! 爛れた関係! 」
「違う! 違います! 誤解だ六階だ! 」
 すっかり打ち解けた二人に、シグマはふふと微笑んだ。

 

 


   3

 そうしてこうして、どうしてこうなったのか。
 簡単に言えば、リョウタロは先般の資料雪崩で自室が使用不可のため、アリューシャはもう一晩安静を確保するため、シグマは元々ここで寝起きしていたため、三者三様の理由のため三人で一晩、リビングルームをシェアすることになったのだ。
 板の間に転がり見知った天井を眺めながら、リョウタロは隣で寝息を立てるシグマの横顔を見つめた。蜘蛛の糸で描いてもこのような繊細な出来にはなるまい。眠っている人間というのは力が抜けてどこか間が抜けているのが常だろうが、シグマの場合はその力の抜け方さえ美しい。
「お義兄さん、綺麗ね 」
 アリューシャが囁いた。シグマを挟んで川の字に寝ているので、逆側からも同じような光景が見られるのだろう。
「俺は認めてない 」
「あら、私はすごく綺麗な人だと思うけど 」
「そっちじゃなくて 」
 まだ家族とは、認めていないのだ。
 リョウタロの事情などお構いなしに、アリューシャはくすくすと笑いを漏らす。
「それで、断る気にはなってくれた? 」
 その話はまだ続いていたのか。
 リョウタロが黙していると、アリューシャは続けた。
「貴方の書くフェイクニュース、私も好きよ 」
 思わず起き上がって声の方を向いたリョウタロの唇に、アリーシャの人差し指が添えられた。静かにしろという意味だろうが、その指の腹の柔らかさに心音が騒ぐ。
「意外と見てる人、いるんだから 」
 頬が熱くなったのは、思わぬ読者出現の喜びか、色恋か。
「ミリョウノハコってサイト名も好き。終わらないかんじで 」
 きっとアリューシャの頭の中では、未了の箱と変換されているのだろう。実際はかなり昔に発行された妖怪ものの推理小説の題を読み間違えて名付けたとは口が裂けても言うまい。
「だから、人口調整なんかに使われたくない 」
 今にも泣きそうな声だ。
 しかし、人口調整なんかとは何事だ。この国、強いては人間社会が生き残るために必要な制度だというのに。
「なんで人口調整に反対なんすか 」
「教会の見解が知りたい? 」
「いや、アリューシャの意見 」
 アリューシャはリョウタロの唇から指を外すと、ふむむ、と自分の唇につけた。これもある意味間接キスなのだろうか。またもリョウタロの心音が騒がしくなる。
「ダブついた人口を調整するって、つまり人口を減らすってことでしょ 」
「まあ、現状だと増えることはないから 」
 つい揚げ足を取ると、アリューシャはむうと唇をとがらせた。
「じゃ、どういう人間から減らされると思う? 」
「そりゃ、使えない奴から 」
「そ。国司院にとって、都合の悪い人間から 」
 教会が人口調整に反対する理由が見えてきた。
 子どもの姿をした者たちは非力で労働生産性が低く、国家にとっては重荷でしかない。
「わかってもらえたみたいね 」
 リョウタロの沈黙を是と取ったアリューシャは、安らかな寝息を立て始めた。
 しかし、リョウタロの目は冴え渡る。
 アリューシャの気持ちはわかった。それでも、わからなかった。 不要な人間を減らして、何がいけないのか。他の人間が生き残るために、生産性の低い者を切り捨てて何が悪いのか。そもそも、不要な人間とは何か。リョウタロにとって、シグマは家族として認められない不要な人間だが、姉にとっては婿として自らの側に引き入れるほど大事な人間だ。仕事を依頼してきたミユミとニュニュだって、知る前はひとかけらも要とは思わなかった。それでも今いなくなられたら困るし、何より魅力的な少女たちだ。もう必要な人間だろう。アリューシャだってそうだ。ぶつかった時は甚だ迷惑ではあったが、ここ数時間にして心の中にするりと入ってきて友人と言っても過言ではなくなってしまった。
 人の要不要は何が決め手なのか。
 人知を超えた存在の裁量で決めるのか。
 それは果たして、納得できることなのか。
 悩みに悩んで、リョウタロはポケットに入れっぱなしになっていたミユミとニュニュの名刺を取り出した。この名刺は通信端末の役目も兼ねており、名前の部分を指でなぞると本人宛にショートメッセージを送ることが出来るらしい。どういう仕組みなのかはいまいちわからないが、そういうものだそうだ。二つの名前を見比べ、リョウタロはミユミの名前をなぞった。明らかにニュニュよりミユミの方が、話がわかりそうに見えた。音もなく宙空にディスプレイが浮かぶ。夕方に二人と懇談したカフェのメニューと同じような仕組みなのだろうか。ディスプレイを指でなぞると、水面を弾いたように波打ってキーボードと右向きの矢印ボタンが表れた。これで送信せよということだろう。
 できる限り簡潔にわかりやすく、気持ち悪くならないように気持ち悪くならないように気持ち悪くならないように細心の注意を払って、リョウタロはショートメッセージを送る。
 返事は、呆気ないものだった。


 

       2

 E戸川区内、某所、川っぺり。
 時刻は深夜三時。リョウタロがミユミにショートメッセージを送ってから二時間も経過していない。
 ご依頼の記事は人口調整課のお仕事を見学してから書いてもよろしいでしょうか、とのリョウタロの送信内容に、ミユミからの返信は、たったの八文字だけだった。
 では今、ここへ。
 添付された地図も、簡素なものだった。
 それだけで寒空の下、公共交通機関を頼りに出てきた自分自身が酷くおかしく見える。隣にニュニュがいなければ、腹を抱えて笑っていたところだ。
 まさか本当の取材をするはめになるだなんて、昨日までの自分では想像も付かなかった。もちろん今まで通り何の資料も無しに嘘の記事を書いたってよかったのだ。それでも、実際に見て確かめたくなったのだ。いったいどんなふうに人を調整するのか、を。
「実際のお仕事を見て書きたいとか、プロじゃん 」
 いいじゃんすげえじゃんと絡んでくるニュニュの服装は、カフェで会った時とほぼ変わっていない。ピンクのふわふわ、似非フランス人形。ただ、異様なのは両手に持った牛刀だ。
「あ、これ? これは万能包丁。マジ万能なの 」
 危なっかしいのであまり振り回さないで欲しい。
 リョウタロの思いとは裏腹に、ニュニュは慣れた手つきで二本の牛刀を宙に放り投げ、くるりとターン。みごとにキャッチ。
「ね、万能 」
「いや万能なのはあんただろ 」
 思わず突っ込んでしまった。
 ニュニュはうねうねと照れ、ころころと笑っている。
「仕事道具だからだよ。リョウタロさんのそれと同じ 」
 牛刀を持ち替えたニュニュが指さしたのは、リョウタロが首から提げたフィルムカメラだ。実は家にオブジェとして飾ってあったものを拝借しただけで使い方も詳しくは知らないのだが、首にかけているだけでいかにも記者然とできる代物だ。
「じゃ、これからあたしお仕事するから、しっかり取材してね」
 よろしく、とアイドルばりのウィンクを残して、ニュニュは一足飛びに川と土手とを隔てるフェンスに乗り移った。ニュニュの身長の倍ほどの高さのフェンスだ。いったいどういうバネをしているのか。リョウタロが走って追いかけるも、人が通れるようにはできていないはずのフェンス上をニュニュは一直線に走って行く。ニュニュの一歩ごとにフェンスは軽やかな金属摩擦音を奏でる。鈴を奏でる楽器を持った誰かが、ニュニュの幼い歩調を飾り立てているかのようだ。それが誰なのかと問われれば、神としか答えようがないだろう。歩みの先には、アーチ状の橋。かなり古い橋だが、良質なコンクリートをふんだんに使える時代に作られたため、未だ改修の予定が立っていない大橋だ。
 あっと声を上げそうになって、リョウタロは寸でのところで堪えた。橋の上に、人が。明らかに人影が。
 橋の端に到着したニュニュが、人影に一太刀。
 首が飛んだ。腕が飛んだ。足が飛んだ。
 リョウタロだって知っていた。この時代に生きる人間は、特殊な信仰などがない限り、脳から死の概念を取り除き、身体を物理的な死から解放する薬剤〝メメントモリ〟を月に一回程度服用している。つまり、物理ダメージのみで殺すためには、身体の四十パーセント以上を完膚なきまでに損壊させねばならない。
 人口調整。目を背けたいのに、背けられない現実。
 鮮血の朱で染まった牛刀、咲き乱れる幼い少女の笑顔。
 手には首。
 それが誰だったのかさえわからないほど、切り潰された首。
「リョウタロさあん! 撮って撮ってえ! 」
 撮ってと言われたので、撮った。何かが落ちるようなシャッター音。フィルムカメラ独特のアナログな響きだ。シャッターを押しただけで撮ったと言えるかどうかは定かではないが、確かに撮った。落ちたのはシャッターではなく、何だこれは。フィルムカメラニ触れていた指先から寒気が広がり、全身が震え出す。ガチガチと歯が鳴ってしまう。 
「今どきのゾンビは百六十五分割以上の肉片になるまで切り刻まなくちゃいけないわけじゃないから、これでも楽の方なの 」
 なんてことない口調だ。カフェの時となんら変わりない。変わりなさ過ぎる。
「これで実行係のあたしのお仕事は完了! 」
 牛刀を持ったまま器用にピースサインを示してくるニュニュを尻目に、リョウタロは脱兎のごとく逃げ出した。

 

 
 

 1

 どうして逃げているのか。リョウタロは頭の中を疑問符でいっぱいにしながらも、足を動かした。生まれて初めて目の当たりにした暴力。血の滴り。震え。恐れ。戦き。
 ただ、知りたかっただけなのに。
 人の存在の優劣が、何で決まっているのか。
 自分がいったい何を書かされようとしているのか。
 しかし目の当たりにした瞬間、嫌になった。思い出されるニュニュの笑顔。圧倒的な暴力。飛び散る血液。すべてが嫌になった。人口調整課の実行係が殺人鬼と呼ばれている所以が、唐突に理解できた。もう部屋に帰って眠りたい。あの甘やかな資料の塔に埋もれて、旧式の入力端末を片手に楽しい嘘だけをついていたい。
 どれぐらい走っただろうか。
 公共交通機関も使わず、ただただ走るだけで自分の家にたどり着けたのは奇跡のような事象だった。鳥の帰巣本能に近い何かがリョウタロにもあったのだろうか。
 朝日がまぶしい。逆光の最中、自宅の扉を開けてするりと入り込む。懐かしい玄関の薄暗さが、ざわついた心を落ち着かせてくれる。シグマもアリューシャもまだ寝ているのだろうか。やけに静かだ。ふと、廊下の奥に小さな影があるのが見えた。一瞬ニュニュが先回りしていたのかと身構えたが、シルエットがまるで違う。黒髪ショートカット、身体に沿うようなぴったりしたスーツ。ミユミだ。ミユミならまだ話がわかる。
「ミユミさん、ミユミさん、ミユミさん 」
 恥も外聞もなく、リョウタロは少女にすがりついた。
「あらリョウタロさん。少し驚かせてしまいましたね」
 少しどころじゃねえよ、と突っ込みたい気持ちを抑えつつ、リョウタロは今の素直な気持ちをさらけ出す。
「国策記事、俺には無理です 」
 どうかお願いです。他を当たってください。他の当てなんてないけども。とにかく無理だ。
 懺悔にも似たリョウタロの嘆きに眉一つ動かさず、ミユミは応えた。
「無理ではしかたないですね 」
 物わかりのよいミユミの言動は、雲間から差し込む一筋の光だ。
 しかしそれは、周囲の分厚い雷雲から目を背けさせるブラフでしかない。
「市民リョウタロ、職務不履行。不要人物と位置づけます 」
 リョウタロがぽかんとしていると、玄関扉がぎいと開き、両手に血濡れた牛刀を持ったニュニュが入ってくる。
「え、えなんで俺、不要 」
「働かざる者、食うべからずなの 」
 ざくりと音を立てて、足の甲に牛刀が刺された。刃渡りはそこまで大きくないはずなのに床まで刺さり、リョウタロは昆虫標本よろしく床に縫い付けられてしまった。あまりの痛みに声が出ない。
「お国のために、調整いたしましょう 」
 ミユミが言い切るギリギリのところで黒い影に引っ張られ、リョウタロは後方へとぶっ飛んだ。
「何やっちゃってんのよ、もう! 」
 アリューシャだった。イエローブロンドが乱れているところを見ると寝起きだろうか。今の一撃で引きちぎられたリョウタロの足か血がどくどくと溢れ出ているのを見て取り、自らの額から細胞再生シートを引っ剥がして止血する。
「あら、教会の方ですか。公務執行妨害はだめですよ 」
「いいえ、リョウタロが貴方たちと敵対するなら私は助けます。人口調整条項において、抵抗権は認められていますので 」
 ジリジリとにらみ合うミユミとアリューシャ。
 その隙間を縫って、音を立てて牛刀が飛んできてリョウタロの頬をかすめる。
「何やってんのボケとろ! 逃げろ! 」
 アリューシャの叫びに近い声で、リョウタロははっと気づいて廊下から逃げ出す。しかし、玄関側はミユミとニュニュに陣取られ、リビングルームにはシグマが眠っているはずで、逃げる先といえばもはや自室しかない。這々の体で階段を駆け上ると、もはや懐かしき物理資料の雪崩跡。えいや、とその中に飛び込むと、リョウタロは大きな身体を小さく小さくまとめて資料の裏の奥底に身を隠した。リョウタロが調整対象になったという言葉を思い出すと震えが止まらない。そうだはじめからここを動かなければよかったのだ。この四畳半とサイトという城から抜け出して、国司院という権力の後ろ盾に惹かれ、異性という花に手を出したその報いに違いない。ごめんなさい。もうしませんから許ください。リョウタロは人知ならざる何者かに許しを請うた。しかし、懇願叶わず。階段をリズミカルに上がってくる音が聞こえる。軽やかな金属音を伴っているので、ニュニュだろう。実行者が、殺人鬼が、もうそこまで迫ってきている。
 こうなってしまっては、もう自分に残せることはこれ以外にあるまい。リョウタロは入力端末を両手で持ち、記事更新を開始した。小さいけれど、楽しい我が家。今回だけは、嘘ではなく事実を書こう。国司院のこと、人口調整課のこと、教会のこと、家族のこと、リョウタロが閲覧者たちに何を思い、どう感じているのか。すべてのことを嘘偽りなく、正直に書こう。
 気づけば、周囲は火の海だった。火をつけられたと気づいた頃にはもう遅い。身体はもう動かない。焼けた化学物質か何かの毒が身体に回ったのか、毒でも撒かれたのか。どちらにせよ、もう命はない。
「だから言ったじゃないですか 」
 誰の言葉だったか。姉か、シグマか、ミユミかニュニュか、アリューシャか。何にせよ後の祭りだ、とリョウタロは目を閉じた。
 

 0

  
「ねえ、どうしよう 」
 ここは精神治療院に併設された植物園。天井に取り付けられた多数のミラーとライトで、二十四時間真昼の光が再現されており、植物たちは必要以上の成長を強いられている。一見のどかだが、どこか張り詰めた温室で、シグマは睫毛を憂いにきらめかせつつひとりごちた。
「リョウくんのこと、全部消えちゃったみたい 」
 家も、資料も、存在も。 
 あの夜、一つの戸建て資産が灰になった。
 死者一名、重傷者一名、行方不明者一名。
 犯人は教会指定のシスター服を身にまとっていたと見られているが、教会は関係を完全否定。
 全壊した建物は国司院によって買い取られ、即更地化。
 半年もしないうちに立派な公営住宅が建設されてしまった。
 もともと年単位の引きこもりだったリョウタロのことなど、近所の人間が覚えているはずもなく、リョウタロの姉もどこかへ出張に行くとだけメッセージを残して帰ってこず、連絡もつかないので伝えようがない。生きているのかさえ不明瞭だ。
 リョウタロが更新していたらしきN国発のニュースサイト〝ミリョウノハコ〟にあまりにもリアリティのある嘘記事が多数掲載されていた、と、別の国のニュースサイトが記事にしたのはさらに半年後。そこから更新が止まっていることが人々のいろいろな憶測を呼んだのも約半年。結局は更新が止まったのも含めて手の込んだフェイクニュースなのだろうと判断され誰も見なくなり、いつのまにかサーバーから削除された。
「本当にリョウくんは、いなかったのかな 」
 今、シグマは国司院運営の精神治療院で保護入院の措置が執られている。盗み見たカルテには、火事で家が全焼してしまったのショックが大きかったので、元々配偶者の不在時に自分を慰めるために脳内で妄想していた架空の義弟が本当に存在しているかのごとく振る舞って、自分を癒やしているのだろう、とあった。
「シグマくん、またこんなところにいたの 」
 所在なさげに佇むシグマに、栄養パックを持った専任の男性医療スタッフが駆け寄ってきた。シグマの上から下までをじっくり見つめる視線には、どこか熱がこもっている。
「今日は何か食べてもらいますからね 」
 昨日も何も食べなかったわけじゃないのに、と反論する暇も無く、栄養パックの口を口腔に突っ込まれ、勢いよくどろりとした白い液体を喉奥に注ぎ込まれて、むせてしまう。
「ちゃんと飲まなきゃだめですよ 」
 シグマの口元からこぼれ落ちた液体を指で拭い取ると、医療スタッフはその指を大事そうに温存しながらシグマに水をすすめた。
 何に使うのか気にしては負けだ。
 シグマはすすめられるがまま水を飲み、呼吸を整えた。
「じゃ、病室に戻りますか。先生もお待ちですよ 」
 医療スタッフに促されて、シグマはゆっくりと立ち上がり個人の病室へと戻っていく。
「カレー作りたいな。リョウくんが食べてくれたから 」
「はいはい、リョウくんリョウくん 」
 こんな風に会話を流される日々が続くのと、そこまで関係もよくなかった義弟のことを忘れて過ごすのと、どちらがマシだろうか。どちらかを選び取るには、もう少しだけ時間が必要らしい。
 植物園の外から、シグマを見つめる特徴的なグリーンティーの瞳。黒のタートルネックワンピースに、額から耳、髪の先までをすっぽり隠す黒頭巾。アリューシャだ。あの日そのままの格好でありながら、首には博物館で見かけるような古式ゆかしきフィルムカメラをかけている。植物園内にいるシグマの後ろ姿を写真に収めようと構えると、とたんに警告音声が鳴り響いた。
「そりゃ患者を勝手に撮るのはマナー違反でしょうね 」
 自分の無作法を嘆きつつ、アリューシャはどこか不満げだ。ならば、あちらからは見えないのに、こちらからだけのぞき込めるようにする構造は倫理的にどうなのか。どこかフェアじゃない。
 教会が火事場からの脱出と証拠隠蔽の条件として出してきたのは、リョウタロの存在を完全に忘れることだった。守れなかった相手、少しの間だけでも友人のように笑い合えた仲だ。正直忘れろと言われてもかなり難しいことだった。もちろん、リョウタロの存在を忘れると言うならば、その周囲の人間への接触も禁じられている。接触したらどうなるかまでは聞いていないが、リョウタロの遺品であるこのフィルムカメラを手に入れるところまではできたのだ。記念にシグマの写真を撮っておくことくらい許されるだろう。
「それはどうかな? 」
 え、と声を上げる隙も無く、アリューシャは仰向けに倒れた。
 右肩口から左脇へ、左肩口から右脇へ、両袈裟懸けに血がほとばしる。さらにたたみかけるように乱切り細切りメッタ刺し。アリューシャがアリューシャの形、いや人としての形を保っていられたのはほんの数分程度だった。フィルムカメラは音を立てて落ち、衝撃で後ろの蓋が開いてしまった。
「やっぱ万能包丁って万能じゃんね 」
 一仕事終えて去って行ったのは、ふわふわピンクの女の子であった。
 虚構を超えて無に至る。
 世界の理に温情はなく、今日も非情がのしかかる。
 それでも生きていくしかないと生きていくのが地獄なら、いっそ死んでしまうほうが幸せなのだろうか。
 死すら管理された世の中でそれを問うこそ不毛だろう。
 人々はひたすら、無を結っている。
 
 
                                            無結う民 終 
 

― 虚無世界と君のロジカ―

妄想した人:村岡

twi:@twonightcooo

 

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